■2006年10月26日(金) | もうすぐ十月も終わる。 | ||||||
ずっと『ボクイキ!』パンフレット作業をやっているが、『清ら肝』などの繁忙期が過ぎてすこし余裕が出来たお陰で、逃避行動をする余裕まで出てしまい今ひとつ進捗状況がよろしくない。 『Zガンダム劇場版』を観たら、オリジナルとずいぶん変わっていて判りやすくなっている部分もあったが、往年のファンにとっては不満な仕上がりだろうなと感じた。声優が変わっていたり、声が年相応になっていたりなど。たしか『ブライトキャプテン』は亡くなったのだったかな。 それから『Underworld2』を。 何にも考えなくて良いものばかりを観る。 珍しく無性に酒が飲みたくなる。 |
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運動会のなかで。 | ■2006年10月22日(日) | ||||||
この数日。家でデザインなどをしていると、近くにある小学校から『ドラえもん』のテーマや『アンパンマン』、教員の叫びなどが聞こえてくる。風向きで“音量”が違う。朝九時過ぎから、断続的に同じ曲が繰り返されるので、ああ、授業をクラス単位でやっていて、今は“休み時間”だとか、あ、今は三時間目だ、などと判る。学校と、もっと近い距離にいて、夜のお仕事をやってると辛いだろうな。 『ボクイキ!』舞台美術の素材探しであちらこちらへ行く。その内のひとつに生地のスーパー『しゃりま』。布のことは詳しくないが、寸法の単位を“ヤード”で表すらしい。「ヤード500円です」と。“寸法”と言えば、舞台業界では“メートル法”を使わない。「あの平台は一尺高です」とか「舞台奥三間だね」や「そのハコウマは二寸足りない」などなど。これまでは強引にメートル法に“翻訳”していたが、これからはそれではマズイな。勉強せねば。 美術について、この道三十数年の大先輩スタッフに教えを乞うて、さらには助言を頂きつつ進めているわけだが、「この作業の次にやるべきことは縮小模型を作ることですね」とか言われるとすぐに挫けそうになる。子供の頃から『図画・工作』が苦手だった。 そこで大先輩に質問してみる。 「その、縮小模型って、コンピュウタの3D画像でも 良いんですかね?」 「ああ、グリグリまわすヤツですね? 良いと思います」 「今まで、見たことあります?そーゆーの」 「いや、ないですけど、2Dのパースペクティブなら ふつうに見ますよ。遠近法の」 「そうですか。たわらがやる場合はきっと そっち系が早いです」 「なら、それが良いと思います。 ってことは、夜、眠らないタイプですね」 そう、こーいったことは眠らずにいくらでもやってしまうのだ。 よしよし、まずは『CAD』の勉強からか。 |
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■2006年10月20日(金) | けいこはたのしい。 | ||||||
順調に進んでいる稽古。気が付けば本番まであと三週間あまりという現実にクラクラするが、楽しんで稽古をしている役者を見て、まあ、何とかなるだろうと考えている。必ず何とかするが。 新人君からベテランまで入り乱れている稽古はおもしろい。それぞれの身体を見ながら、こう動くとさらにおもしろいだろうと考え、要求するがなかなか上手くいかない。意図を細かく説明し、意見を聞けばアタマでは理解している様子。なるほど、そこが難しいのだ。自由な身体を得るためには日々の弛まぬ努力あるのみ。いや、たまには休みながら。 だから明日は二回目の懇親会を行う。 で。それにしても島さんはおもしろい。 ようやく来年の準備に取りかかっている。 今年はTTC(仮称)外の仕事を幾つか頂いてそこに集中したので、来年は、少々アレだった劇団の公演を増やす予定でいる。 で、いま考えているのは、ずいぶん前に上演したことがある二作品の再演と、日本製戯曲を六作品連続で『月イチ』リーディング公演。ただいま準備中である。 この動きには二つの目的がある。 まず第一に『劇団員の役者的基礎体力の向上』。第二に『この沖縄でふつうに現代演劇をやる』ということ。 『基礎体力の向上』は、まあ、そのままの意味だが、外部のベテランを何人か客演に迎え、少々難解な作品を二本連続で上演する。「現代口語では絶対にこんなこと喋らないよ」的せりふ満載の作品で、『演劇的せりふ』の難しさとおもしろさ、美しさについて考えたい。 『第二』は説明しにくいが。 この数年、何人もの方から「沖縄でやるなら(コトバを含めて)オキナワの今を表現しなきゃ」と助言を頂いた。まあ、確かにそうとも言えるが、だからこそTTC(仮称)では、基本的にはあえて“ヤマトグチ”でやってきたわけで、「オキナワで芝居をするなら必ずオキナワものを」というのは排他的ではないか。だが、もちろん食わず嫌いは論外であるし、また、いつかは『オキナワの今』を表現する必要性が出てくるであろうとも考えて、TTC(仮称)活動の一翼として、オキナワものの起源とも言えるウチナー芝居や琉球舞踊の勉強をしてきた。ウチナー芝居公演ではTTC(仮称)団員もその現場に立ち会わせ、可能な場合は舞台にも立たせた。そうして数年経ったこの辺りで、一度立ち止まり、改めて足下を確認しつつ、ひとつの節目の『この沖縄でふつうに現代演劇をやる』ことを考えてみようと思う。それから次の一歩を考えるのだ。 |
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あさからよるへ。 | ■2006年10月16日(月) | ||||||
朝、起きてコンピュウタの電源をいれる。作業。夜、コンピュウタの電源を切ってねる。これでは身体に悪いので気分転換と昼食のために外出。ついでに映画『トランスアメリカ』を観た。笑った。 ときどき、パレット久茂地正面二階の広場から道行く人を眺める。たくさんの顔がある。周辺の建物の窓にも人影が見える。それぞれに生活がある。 雑誌を読む。『台北』の特集。『原田泰治』のことなど。 『ボクイキ!』稽古。 別公演のため、しばらく休んでいた役者が戻ってきて心機一転の再開。 この公演は、沖縄市文化協会の助成により、若手、中堅の舞台人を育成するための事業である。よってワークショップ的意味合いからも、稽古を休むことや複数の舞台を“掛け持ち”することについて厳しく注意をした。 各自の事情があって、止むを得ず休むことはある。掛け持ちすること自体は良いことではある。しかし、多くの舞台に立ちたいからといって安易に仕事を引き受けると、両方の公演(制作)に迷惑がかかり、両方の役者が不愉快な思いをする。 ちょっと前まで、こういった“ダブルブッキング”は沖縄芸能関係で多く見られた。出演者が『ゲネプロ』にすら来ないという現場も経験した。現代演劇の現場では、良くも悪くも妙な一体感の元、こんなことはなかったし、聞いたこともなかった。ところが、最近は身の回りでよく耳にするようになってきた。 掛け持ちする現場の稽古時間が重なるかどうかは、引き受ける段階でおおよその見当が付くはずだ。引き受けてあと、稽古が始まり、チラシも出来上がってから「休みます」では、契約違反である。 たわら自身もどんなに立ちたい舞台であっても先約とぶつかるようであれば断ってきた。それはふつうに常識である。実際、これまででも信頼の置ける役者たちからは「稽古で迷惑を掛けそうだから遠慮する」と言われたことが何度かある。これは“社会人として”当たり前のことではないか。 かつてある現場で前々から決められた稽古を急遽休むと言い出した役者を怒鳴ったことがある。稽古場でだ。もちろん稽古場の雰囲気はまずくなった。しかしこちらは遊びでやっているのではない。稽古を疎かにして舞台に立つのは共演者(同僚)の存在を軽んじ、さらにはお客様をバカにしているのと同じだ。 仕事が増え、業界が活気づくのはとてもともて良いことだが、そんな状況に浮かれて、大切なことを忘れてしまってはいけない。 で。こういうのはどうだろう。 マクドナルドでアルバイト! 出勤予定日の急なキャンセル理由は! 「モスバーガーのバイトが入ってます」 |
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■2006年10月14日(土) | 逃避する心の余裕のある忙しさ。 | ||||||
『ボクイキ!』のパンフレットデザインに取りかかっている。 音楽を聴きながらもくもくもくもくと作業を続ける。参考のために一昨年の戯曲大賞公演『オキナワニフルユキ』の際にデザインした印刷データを引っ張り出してみた。なるほどあのころのたわらはこんなふうにデータ作成していたのか。なるほどなるほど甘いな。しかし、まあ、15ページあるデータを確認しつつ、前向きに考える。少しずつなりとも経験値は上がっているんだ。ただし、理想にはほど遠く、上には上が。 『ボクイキ』では印刷所に負担を掛けている。こんなことではダメなのだ。理路整然としていて美しく、なおかつ軽いデータを作らなければならない。『Illustrator』と『Photoshop』は何でも出来る“道具”だ。重要なのは“発想”とそれを具現化する“技術力”か。あと、それに付随する諸々のコトも。演劇と同じだな。目的はさまざまだが。 (今さらジャンル分けもアレだけど、まあ、伝わりやすい気もするので)デザイン作業をするときはいわゆる“洋楽系”で、文章を書くときには“クラシック系”を聴く。どうやら脳内で情報処理している部位が異なるようだ。デザイン作業の場合は主に、心的及び内的圧力を高めるために日本語が出てこない音楽を聴く。文章の場合は思考の流れが途切れないように、言語が出てこないクラシック系器楽曲を中心に聴く。ただ、中でも壮大な交響曲や組曲、前衛的現代音楽の流れを汲む曲、情熱的なピアノ曲なんかだと、かえって“気”を持ってかれてしまい仕事にならない。沖縄音楽はなおのことダメで、なぜなのだろうと考えてみたら、沖縄楽器の音色は“コトバ”なのだな。しっくりと合った説明が出来ないが、そう、新生児の泣き声に似ている。 ある所とさる所から講師の依頼が。いずれも来春開講の専門学校系演劇スクールだ。再びさらに“外資系”がオキナワに注目している様。そんな折『高校演繹連盟』から演劇大会審査員の依頼も。そうそう。この調子で演劇人口が爆発することを願うよ。 『広告』と『トーマの心臓』を読む。ネット上では恐ろしい事件が勃発。 |
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べんとうつう。 | ■2006年10月12日(木) | ||||||
昔、実家が“コーヒーシャープ”をやっていたことと関係ないと思うが、たわらは仕出し弁当にうるさい。仕事柄、出先や、劇場などで弁当を食べる機会が多いのだ。どうしても出先周辺で弁当を調達する。それで見えてくるのだが、地域性とでも言おうか、弁当には様々な土地の様々な“味”がある。また、これまで多くの仕出し弁当を食したが、違いは“味”だけではない。“愛”について考えさせられる弁当に遭遇することもある。いや、愛のある地域とそうでない地域があるわけではない。恐らくは、経営者、もしくは調理人の“腕”と“心”によるものであろうが、“愛”のある弁当とそうでないものの違いは一目瞭然だ。 知っての通り仕出し弁当には、個人経営系、スーパーマーケット系、デパート系、ほっかほっか亭などのフランチャイズ系と色々あって、個人系にしろスーパー系にしろ、店舗の経営方針、調理人の生き様如何で味付けから、盛り付けなどが変わってくるのは当然。作り手の『想い』が伝わってくる。意外なのはホカ弁だ。完璧マニュアルがあり、ある程度の調理済み食材を使っているであろうに、店舗ごとの違いが見えて興味深い。やはり野菜炒めはファーストフードハンバーガーなどの完全管理食品と同様にはならないということか。ホカ弁だけに限らないが、それこそ炒めすぎた野菜は痛めつけられたようだ。 最近のTTC(仮称)お気に入りお弁当は『ユニオン』。結果、褒めることになるのでちゃんと書くが、『ユニオン』の、あの、異様なまでの乱雑さは、個人的には好みではない。「こら、片づけようよ」と声を掛けたくなる。だから『ユニオン』では買い物はしない。落ち着かないから。だから、これは好みの問題であるが。つい最近まで、お弁当も、きっと、必ず、絶対、乱雑てんこ盛りに違いないと決め付けていた。しかし、ところがどうして、なぜかお弁当はキレイなのだ。四百円のお手頃価格にもかかわらず、品数、盛り付け、分量、味、どれも見事である。大量に仕込んでいるにもかかわらず、あの理路整然とした姿形。しかも、幾つかの店舗で購入してみたが、いずれもキチンと管理されている。アレは各店舗任せの丸投げではない。一体どんな仕掛けになっているのか。ことによると店舗のあの乱雑さは何かの戦略なのか?『ユニオン』弁当おすすめ。 『ボクイキ!』稽古の一環ではないが、皆で『伝説の女優』を観劇したようだ。感心感心。たわらは残念ながら観逃したが、ベテランの演技は良かったよう。この調子でどんどん目を“肥やして”欲しい。 そろそろ美術プランを立ち上げる。おそいけど。 |
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■2006年10月10日(火) | ない。 | ||||||
本格的にテレビ放送を見なくなったのは十四歳の時だった。一人暮らしを始めた二十歳過ぎからずっとたわら邸にはテレビジョンがない。コンピュウタのモニタはあるがテレビ受信機がない。ちょっと前までは『テレビモニター』はあったが、それも受信装置が入っていないので放送は映らなかった。そのモニターも知人に譲ったので、本当にテレビがない。 レンタル映画を観る場合はコンピュウタのDVD機能で、となる。初めて『テレパソ』と言われるパーソナルコンピュウタが発売された数年前には、「え?コンピュウタで映画?テレビ?あはは、見れれれないよ、そんな」と思ったものだが、なんだろうこの時代の変化は。 関係ないが、DVDで『SHINOBI』を観た。初めて、動いて喋る『仲間由紀恵』と『オダギリジョー』を見た。“資本主義”なんだなあと実感。初見の『オダギリジョー』は『宮本亜門』に似ていた。親戚か?それから『升毅』が出ていた。好きだ。 ネット上である文章を読んで、珍しく気持ちが真っ直ぐになる。上手くなりたい。見識を広めたい。良い仕事をしたい。上には上がいる。上向きに、前のめりに生きていく。でも、絶対に頑張らない。コツコツと無理せずに、出来ることと出来ないことをやって、ゆっくり歩いていく。百八歳まで生きる予定だから。 そろそろ『新年の抱負』を考える時期だなあ。来年も忙しいし。まずは東京へ芝居を見に行こう。 |
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SNS。 | ■2006年10月7日(土) | ||||||
ずいぶん前に知人から、ある『SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)』への招待を受けた。時代遅れも甚だしい話題だが、少しだけ時間に余裕ができたので、以前から気になっていた『SNS』ついて調べてみた(詳細はこちらとかこちら)。 「使ってみた」ではなくて「調べてみた」というところが、たわらのひねくれているところだが、仕組みが解らないと気持ちが悪い。 『SNS』はネット上で余りに有名なので、肯定、否定と意見が爆発している。それをどう捉えるかは使用する人それぞれの解釈だが、それにしてもみな熱い。 かつて、『パソコン通信』時代にも『フォーラム』などに顔を出したことがあったが、当時からそんな行動が苦手だった。『オフ会』にも参加したことないし、チャットでも『ROM』ばっかりだった。今は一般的なBBSすら苦手で書き込みをしたことなど一度もない。そのくせ日記の公開を始めてから既に六年余りである。 さて、数ヶ月前の招待メールから参加登録してみた。プロフィールを入力してトップページへ。友達リストには招待してくれた知人のみがひとり。コミュニティ登録もない。 そうか『あしあと』が残るのか、なるほど、プロフィールに多くのキーワードを書き込めば、どこからか誰かが検索してたどり着く可能性が増えるわけだ。それで友人を作り、閉じられたコミュニティを作るのか。ふむふむ。そうかそうか。 で、このあとどうすれば良いんだろう。 コツコツと事務作業を進める一日。とつぜん『じゃがりこ』と『トウモロング』が食べたくなって買いに行く。ついでに、ずーっとほったらかしてあるハードディスクレコーダーの整理もする。気持ちは年明けの公演に向かっている。 |
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■2006年10月6日(金) | じゅうがつそうそうどろぼう。 | ||||||
朝。アトリエ下の花壇に水を撒こうとしたら『巻き取り式水撒きホース』が盗まれていた。車庫奥の水道に取り付けてあったヤツ。その構造が解る人なら解ると思うが、蛇口にねじで固定してある接続部分だけ残して消えていた。 なんともやりきれない。そもそもホースがあることを知らない人がわざわざ車庫奥を確かめて持って行くわけはない。おそらくたわらが使用しているのを見たことがある、通りがかりの人が持って行ったのだろう。自分自身がやられたらどんな気持ちなんだろうか、などと考えも及ばないような人なんだな。あーあ。接続部分だけ購入して使うのかな。 それで、さっそく新たに購入しようと思う。こんどは油性マジックで十カ所くらいデカデカと住所氏名を書いて、彫刻刀で名前を彫り込んで、さらに鎖と錠前で固定しようと思う。花壇に花を植えることも出来ないイヤな世の中になっていく。 『ボクイキ!』のポスターが出来上がった。これからあちこちに張り出していく。まあ、目立つことは間違いなし。 |
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もうひと山越えて。 | ■2006年10月5日(木) | ||||||
高安六郎独人芝居『清ら肝』が終わった。 ご来場下さったみなさま、ありがとうございました。 慌ただしい、多忙の中で再演の準備をしてきた。業務遂行能力の容量を超えていたが、そこはマメな劇団員たちが補ってくれて無事に幕を下ろすことが出来た。感謝である。 それからまた。音響、照明、舞台監督など、いつも周りを固めてくれる、スタッフにも大変助けられた。 心強いスタッフたちに支えられての舞台なのだ。 こちら側から出された要望に対し、それが不可能であっても、決して否定意見を出さず、どうすれば不可能に近づいてゆけるかを、考えてくれて、さらにそれ以上、自動的にいろいろな意見が飛び出してくるのは、とてもおもしろく、そしてありがたい。職人だ。 役者の重要な稽古のひとつに「他者の演技を観る」がある。『ボクイキ!』に参加している役者たちに、先の『OZE』公演、『大地』公演、映像で東京の芝居、そして『清ら肝』と見せている。その度に感想会を開いて意見交換をしているワケだが、今回のウチナー芝居が彼らの脳みそにどう映ったのか、方向性は違えども、芸歴数十年の技がどう見えたのか、早く意見を聞いてみたい。好き、嫌いを含め、肯定、否定どちらも歓迎だ。まずはそれぞれ自身と何がどう違っているのか、そこを認識してもらいたい。 今回は再演だったので、上演中は少し余裕があり客席から写真撮影をした。右の写真である。 撮影中にハッと気が付いた。「写真も呼吸だ」。 何をいまさら、という気づきだが、それを体感した。 膨大な残務処理が残っている。休む間もなく稽古に稽古だ。 |
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■2006年10月2日(月) | あそびごころか。 | ||||||
『ボクイキ!』稽古中に、ふとある考えを思いつき、それを皆に話したら大ウケだった。その"考え"を元にして思いを巡らせると、様々な"仕掛け"というか"逃げ"というか、まあ、とにかくそんなものの仕組みのようなものが見えてきた。 これを読んでいる人には、何がなんだかワカラナイことだろうけど、思わぬところから、それこそ思わぬ発見があっておもしろい。 『ボクイキ!』に参加しているある役者から、なぜ役者をやっているのか質問された。これまで同じ質問を何度も受けたが、解らないというところが正解かなとも思う。答えを見つけるためにやっているとか。それが生業というものではないか。おマンマを食べるためだけということではなくて。 質問の主は"メジャー"になりたいと言う。ならば"原則として"沖縄にいてはダメだろうと助言をしたが、ん、どうなのかな、いいのか、ん、それが比較的近道ではあるか。 高安六郎さんの稽古を見ていて、いまさらながらに考えるべきことが多く見つかる。 役者の魅力とは何か。六郎さんは何でも出来ると言ってもよいくらい、本当に何でもやってきた。前にも書いたが、ウチナー芝居はもとより、歌劇、舞踊、組踊り、新劇、テレビ系、映画系、歌モノ、殺陣モノなどなど、どの分野も一定以上の力を持っている。幼少の頃から鍛錬してきた確かな技術力。本番において、その間違いのない技術力の上に、役者としての"気持ち"が上手く乗り、重なって、同調したときの見事さ、恐ろしさ。その前では脱帽するしかない。 そこで再考する。ウチナー芝居と、いわゆる(標準語の)現代演劇との違いはどこにあるか。使用する言語の違いから生じる、思想、身体の差異などがあるのは当然として、もっと単純に、両方の、役者という“生き物”についてだけ考えた場合、果たして何がどう違うのか。 単純に。何も変わらない。 ぐるぐる巡る命題ではあるが、ただ口にするコトバが違うだけだ。 『清ら肝』は沖縄で舞台に立つ、あらゆるジャンルの人達に是非観てもらいたいと思う。かつてのたわらがそうであったように、 「ウチナー芝居はどうもね・・・・・・。」 という声があるのは事実で、認識しているが、"好き嫌い"を超えてでも観るべき身体表現がそこにあるのだから。 |
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